間違いない
そう思った瞬間には
すでに足は勝手に前へと進んでいた。
いいや、実際には進んでいたなんてもんじゃない。
猛ダッシュだ。
奴との位置は距離にして60m程。
…50
…40
…30
もう二度と会えないかもしれない程遠くにいたはずだったのに、無心で自らの脚を前へ前へと進めると、『それ』は驚く程あっという間に近づいて来る。
会えたらなんて言おう。
今まで沢山考えた。
久しぶり。
なんて普通過ぎる。
元気だった?
これも普通過ぎる。
というよりも、正直そんな事は微塵も思ってはいないのだ。
まず初めに一発ぶん殴ってやるんだと、自分は心に決めていたじゃないか。
群がる人垣に揉まれて揉まれ、少々げんなりしている様子の学生。それはまさに今朝、校門の前で大あくびをしていたあの生徒であった。
そこへ物凄い勢いで走ってくる三月の存在に気付いた数名の生徒が、わぁ!?と声を上げながら咄嗟に道を空ける。
そうして人垣の一部分だけが綺麗に縦一直線に割れた。
その間を颯爽とくぐり抜け・・・
「この、クソ野郎っ!!」
三月は勢いのままに飛んだ。
そう
一発ぶん殴ってやる予定が、勢い余って両足で踏み切ってしまったのだ。
これでは飛び蹴りである。
スピードの乗った重い蹴りはただならぬ気配を察知してまさに振り向きかけていた彼の広い背中、そのど真ん中。見事と言わざるを得ない程に華麗に命中した。
ドカッッ!!
背骨に靴底が直撃するという通常聞く機会はそうそう無いような鈍い音が辺りに響くと、すぐ後ろにあった茂みに向かってそのまま二人仲良く体ごと突っ込んでいく。
「…っつ痛てぇ」
突如として思いきり蹴り倒された生徒はというと、現状理解は追いついていない顔をしているがすぐさま体を起こし、自身に危害を与えてきた人物である三月の胸倉を力任せに掴み上げた。
「どこのどいつか知らないが、いきなりこの俺を蹴り飛ばすなんていい度胸してやが…っ」
カシャンッ…
その勢いと反動で、三月の分厚い眼鏡が重たい音を立て、地面へと落ちる。
「…え?」
完全に間の抜けた声。
重なる視線。
その瞬間、三月の大きな黒い双眸が少しだけ、ほんの少しだけ悲しそうに揺れた。
「へぇ…俺の顔なんて、もう忘れたってか?」
三月は無遠慮に力一杯自分の胸倉を掴んでいる生徒の手をバシッと叩き落とすと、先程とは打って変わった鋭い目つきでギッと睨みつける。
「いや…まさか。お前が、なんでココに…」
人の話を聞いているのかいないのか。
生徒は目を見開いたまま一人でブツブツと何かを呟いていたかと思うと、突然、足元に落ちていた眼鏡を少々乱暴に三月の顔にかけ直し、ガシッとその手を掴んだ。
「…あ?」
問いに明確な返答を得られぬまま、がっしりと手首を掴まれた三月は訝し気に首を傾げる。
「いや、イマイチわけわかんねぇけど、ここじゃマズイ。こっち来い!」
「ちょ、…え?おわっ!!?」
生徒は三月の手を引き酷く慌てた様子で茂みの中から飛び出し、三月を隠すようにしながら群衆の間を潜り抜けると、開けた道を物凄い勢いで走り去ってしまった。
「へ?先輩、い…行っちゃった」
「アレ、なんだったんだろう?」
「つーか、誰?!あの変な学ラン眼鏡!!」
「あーっ!びっくりしててプレゼント渡しそこねちゃいました!」
「こっちもだよ!せっかく上手に焼けたクッキーだったのにぃ…」
突然の嵐が過ぎ去った昇降口では、一体全体目の前で起こったことが何だったのか…理解が出来ず取り残された生徒達がワーワーギャーギャーとそれぞれ思い思いに騒いでいたのだった。
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星採学園第一学生寮 307号室 笹本 七月
そう書かれたプレートの部屋に着き、扉がバタンッと少々大きめな音を立てて閉まった途端、二人は重なるようにその場に崩れ落ちた。
学校から寮まで通常歩いて二十分ほどの距離を全速力で駆け抜けたのだから、こうなるのも当たり前である。
「…ったく!いきなり何なんだよ、このっ…馬鹿兄貴っ!!」
肩でゼーゼーと呼吸し、眼鏡を乱暴に外しながら下敷きになっている肉親をおもいっきり怒鳴りつける。
「っは?!馬鹿はどっちだこの馬鹿三月!!なんでこんなトコにいるんだよ!?」
こちらも負けじとゼーハーしながらの反論だ。
「うるせぇな。今日!転校して来たんだ!文句あんのか!?」
「はぁ!?何だって?!天候!?転向!?転校!?」
三月の実の兄、笹本七月は目を丸くしてただただ驚き、弟の口から発せられたその言葉の意味を正確に理解しようと、酸欠でどこかぼんやりとしている脳に鞭を打つ。
「つーか転校ってお前、なんでまた突然…。確か、母さんの伝手で私立高校に入ったって」
ようやくそれが出来た頃には、お互い呼吸の乱れはすっかりと解消されていた。
「やっと…、クソ兄貴の居場所が分かったからな。一発殴りに来たんだよ」
「なら、これで目標は達成しただろ?別に転校なんかしなくても…」
「そういう話をしてるんじゃねぇよ。お前を殴りたかったのはあくまでついでだ」
「いや、ダメだ。父さんには俺から連絡入れとくから、お前はすぐに家に帰れ」
段々と声のトーンが下がり、少し冷たく放たれたその言葉。
三月はサァッと青ざめ絶望の表情を浮かべたのだが、それもほんの一瞬の事。
「ふ…ざけんじゃねぇ!お前がいなくなってからの五年間、俺がどんな気持ちであの家に居たかっ!此処に転入する為にどれだけ苦労したか…っ、何も知らねぇクセに!簡単に『帰れ』なんて偉そうな事言うなっっ!!」
先程の光景とはまるっきりの間逆、今度は三月が兄の胸倉を掴んで鋭い剣幕で言葉を浴びせる。
「…三月、お前」
「だから俺はっ…!俺は…」
言葉が喉に詰まって、貼り付いて、出てこない、剥がれない。
ぐっと黙り込んでしまった三月は、そのまま力無く俯いて七月のシャツに顔を埋める。
香水などではない、あの頃と変わらないふわりと優しい香りがした。
(…七兄の匂いだ)
大好きだった。
憧れだった。
「すぐに、帰って来てくれるって信じてたのに……裏切り者っ」
ぎゅっときつく目を瞑り、七月には聞こえないよう、小さな声で呟いた。
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別に両親が嫌いなわけじゃない。
たとえ本当の親子じゃなくたって、ちゃんと俺の事も考えてくれてたのは知っている。
だけど…。あそこにいるとどうしても比べられるんだ。
「七月君はなんでも出来るすごい子ね」
嬉しそうに微笑みながら、母さんは言う。
「七月は我が家の誇りだな。将来安心して家を継がせることが出来る」
父さんもいつもの堅い表情を崩し、感心しながらそう呟く。
二人からの称賛の言葉に「そんなことないです」と、苦笑いを浮かべる兄。
俺はいつもそんな光景を遠くから眺めていた。
いつでもどこでも称賛の中心にいる兄に負けないよう、勉強もスポーツも人一倍頑張ってきた。
それでも、どんなに努力したって誰一人として俺には見向きもしなかった。
七兄以外は。誰一人。
「三月、この前のテストで学年トップだったんだってな!さっすが俺の弟!えらいえらい!こりゃ兄ちゃんも頑張らなきゃ、あっという間にお前に追い越されるなぁ」
俺の髪をぐちゃぐちゃにかき混ぜながら、七兄は心の底から楽しそうに嬉しそうにニカッと笑う。
「七兄、いたい、痛いよ」
「おっと、ごめんごめん」
照れ隠しに口を尖らせて抗議すると、今度は優しく、乱れた髪を鋤いてくれた。
俺の中にしんしんと積もっている劣等感を刺激する七兄という存在。
それと同時に俺をちゃんと見ていてくれて、全力で褒めたり叱ってくれるのもまた、七兄という存在だった。
「みてみて七兄、学校の体育大会で個人優勝したんだよ!メダルもらった!」
「お、すごいじゃん!お前、もーっと小さいころは運動苦手だったくせにいつの間に!」
「へへ~、だって頑張ってるもん!」
「そっかそっか、んじゃ頑張ったご褒美に兄ちゃんの貴っ重~なお小遣いから300円分、好きなお菓子買ってやるよ」
「やった!七兄大好きー!」
小学三年になる頃には最早俺にとって両親からの評価などどうでも良くなっていて、七兄に褒めてもらう、喜んでもらう為だけに勉強も習い事も頑張った。正直今考えても、頑張ったなんて言葉では足りないくらい。
それなのに
「……なんで?」
俺が10歳の夏。
七兄は突然家から居なくなった。
この頃には多忙を極め、滅多に顔を合わせることが無くなっていた両親からは、七月は少しの間家を空ける、とだけ教えてもらえた。
その日から一年が経ち二年が経っても、七兄が家に戻ることも、連絡を寄こすことも無かった。
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