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「……」

感傷なんか柄でもないのに。この懐かしい香りのせいだろうか。

三月がぼんやりと幼少期を思い出していると大きな手に少々遠慮がちに頭を撫でられ、その瞬間、薄暗い部屋に明かりが灯るかのようにパッと思考が現実へと引き戻された。

「あー…その、なんだ。勘違いをしないでほしいんだけどな。三月のことが嫌いとか邪魔だとかそんなんで『帰れ』と言ってるわけじゃないんだぞ」

「………」

先刻までは刺さる程に冷たく感じていた兄の声が、気が付くと昔と変わらない優しいものへと変わっている。

「お前は実家で苦労なく元気でやっているだろうって思ってたからな。でも…そうか」


ふぅ、と息を漏らし、七月はそろそろと両腕を背中に回すと、きつく三月の体を抱きしめた。


「悪かった、黙って置き去りにして。三月は俺のこと恨んでると思うけど、俺はずっと心配していたし会いたかった。だから、会えて嬉しい」


その言葉に、シャツを握りしめている手に更に力が入る。


「……今…更、そんなこと」


(本当は、本当はわかってたんだ)


兄にも事情があって自分を置いて行かなければならなかった事。


この優しい兄がたった一人の弟を見捨てるはずがない事。


頭では解っていた。


ただ…


感情がついて来ない。


誰もいない部屋、泣きながらひたすら兄の名前を呼び続けていた幼い自分。

兄の気持ちや考えなど推し量ることが出来なかった未熟な自分。

全部が全部、身勝手だった自分のせいなのに。

どうしても、どんなに優しい言葉が目の前にあっても、あの時の絶望を忘れる事が出来なかった。

「だから、お前なんて嫌いなんだよ」

会いたいのに会いたくない

好きなのに好きじゃない

嫌いなのに嫌いになれない

どうしてこんな気持ちにしかなれないのだろうか。

知らないところでどんなに思ってくれたって、その思いは届かない

見えない

触れない

 

形のないものを理解するには

(足りないものが多過ぎるよ)

ーーーーーーーーーー


「しっかし、また派手に一発食らわせてくれたな。危うく背骨折るとこだった」


ふいに七月が軽い口調で長い沈黙を破る。

 

名残惜しそうに体を離しながらも背中のダメージを思い出し「いてて」と顔を歪めた七月に三月は冷ややかな視線を送っていた。


「…全然気は治まってないけどな。どんだけ殴れば五年分の鬱憤を晴らせるんだか」

「殴るってお前、もろ蹴りだったじゃねーか」

「弘法も筆の誤り」

「それ、使い方違う。あれ?そういえば、長らく会わない間にめちゃくちゃ口悪くなってないか?まさか反抗期?」

 

「うるせぇ、バカ」


三月はひょいと立ち上がるとそのまま七月に背を向けた。

 

五年も離れて暮らしていたもので、正直なところ七月と上手く話せないかもしれない、という不安も彼には少なからずあったのだが…。

現在、思ったよりも普通に会話が出来ている事にホッとしている自分がいた。


(変わってねぇな…七兄は)


それに引き換え、七月が指摘した通り自分はすっかり捻くれてしまったと思っている。


(俺は…もう。あの頃のようにはなれそうも無いから)


昔の素直で無邪気な自分の姿を思い出すと、三月は少しだけ寂しげな笑みを浮かべていた。

 

「…っと、大分外が暗くなってきたな。早く寮に行かないとまずいんじゃないか?」

 

「あ、そうだった!俺の荷物っ!」


三月はパッと弾かれたように振り返る。


「入寮の手続き書類見せてみろ。お兄様が直々に案内してやるから」

 

「別に案内なんかいらねぇよ。子供扱いすんな」


四十分以上迷っていた人間の言葉とは到底思えないような見栄を張ってみたのだが


「どうせ方向音痴、治ってないんだろ?三年の昇降口なんて寮とは正反対の方向だ」

 

「うっ…」


腐っても兄。七月には全てお見通しであった。


「…はいはい。んじゃ頼むよ」


気恥ずかしさをごまかすように髪をぐしゃぐしゃと掻きながら部屋を出ようとすると、待て、と七月に呼び止められる。


「三月、眼鏡忘れてる」

 

「そうだった…めんどくせぇ。なんでこんなくだらない変装しないといけないんだか」


ブツブツ言いながらも床に転がる眼鏡を拾い上げると同時に、七月の大きな溜め息が背後から聞こえた。


「まぁ、父さんからしたら家の面子だろうな。一応長男の俺でさえ旧姓でこそこそ通ってんだ。今後を考えてこれ以上お前の顔と素性を晒したくないんじゃないか?ここは政治家、大企業、資産家、芸能人のご子息とかもたんまり在学してるし。あ、ちなみに変装は俺も別の理由で全面的に賛成だから」

 

「七兄は名前だけだろ。なんで俺だけ…」


訳がわからないという風な顔をしている三月に七月は真剣な表情で呟く。


「俺、お前と違って元々そんなに外部に顔割れてないし。とにかく、ここで平和な生活を送りたければその顔は絶対に他の奴らに晒すなよ。お前、ちゃんと自分の容姿把握してるか?身内の贔屓目差し引いてもそこらの女子より可愛いんだから、兄心は複雑だよ」

 

「はぁ?!七兄まで俺が女みたいだって言うのかよ!」


途端に怒りと羞恥から血が上り、顔が真っ赤になった。


「うんうん、怒った顔も可愛いぞ~。…ほい、装着っと」

 

「……くそっ」


七月は眼鏡をヒョイと取り上げ問答無用にガリ勉君に仕立て上げると、三月のぼさついた髪を直しながら至極満足そうにニコニコと笑う。


「…納得いかねぇ」


げんなり肩を落とした三月に、七月はにっこりと笑って「よし、いい子だ」と頭を一撫でした。
 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

それから急ぎ、七月の案内で第二学生寮へと向かった。

第二学生寮は第一学生寮の裏手にあり、歩いて5分程の距離だった。

寮へと向かう道すがら、学園生活における注意事項やら何やらと口煩く言われたのだがそこら辺は右から左ということで。


寮の入り口で管理人から荷物を受け取ると、案内役が終了した七月と別れ、一人で指定された部屋へと向かう。

「ここか」

ドアプレートには[筧 陵介][笹本 三月]とある。

どうやら二人部屋のようだ。


「すみません。今日から同室になる笹本なんですけど…」


中に向かって控えめに呼びかけノックをする。

すぐに奥からこちらへ歩いてくる足音が聞こえたので半歩下がって待っていると、ガチャリと音を立てゆっくり部屋のドアが開いた。

そして…

「「あっ」」


二人はお互いの顔を確認し、それと同時に短く声を上げた。


「今朝の上級生?!」

「あぁ、やっぱり。新しいルームメイトってお前だったんだ。何日か前に管理人に部屋片せって言われてたからもしかしてとは思ってたんだけど」


三月が驚くのも無理はない。

目の前の人物は紛れも無く、今朝学内でぶつかった上級生だった。

しかも親切に一年の校舎にまで連れていってくれたという救世主。

他人の顔を覚えるのが不得意な彼であってもその記憶に新しい人物である。


「こんな偶然もあるんだな。まぁ玄関で立ち話もなんだし、中入れば?」


そう言って、上級生はチョイチョイと手招きをする。

 


さてさて

 

これからの三年間を過ごすことになる肝心の室内だが…。流石あの学園にしてこの寮、といった感じであった。

部屋こそ一部屋しかないが大きめの二段ベッドに勉強机、シャワー・トイレ・ミニキッチン・ベランダは各部屋に設置されており、小さいけれど冷蔵庫や空調機、果ては洗濯機まで完備されている。


「え…すごい。そこら辺の賃貸よりも全然豪華じゃないですか…」

「だよな。俺も初めて入った時にはかなり驚いたよ。他には共同の食堂や大浴場なんかもあるんだ」

「へぇ…」


在学中しか使えないのが勿体無いくらいな設備の充実ぶりである。


(大浴場…興味はあるけど俺は絶対入れなそう)


とはいえ折角の豪華な設備もワケ有りの彼にとっては十分に利用する事が出来ないことが悔やまれる。


「他に分からない事とかあったらその都度聞いてくれ。…って、そういや自己紹介をしてないな。俺は二年の筧陵介」

「あ、えっと…。一年の笹本三月です。あの、筧先輩…」

「あんま先輩って柄でもないし陵介でいいよ。敬語もいらない。せっかく同室なんだから先輩とか後輩とか抜きで気楽にいかないか?」


陵介はにっこり笑うとのんびりした口調でそう続ける。

 

先輩とか後輩とかは関係ない?というか学生時代においてそのケジメはとても重要なのではないか。

いやいや、二年間は同室であろう彼に対して猫を被り続けるのも疲れること必須。

しかし、近寄りがたいガリ勉君スタイルを貫き通した方が面倒事は少なくなるのではないだろうか。

そもそも、初対面に毛が生えた程度の相手に自分はタメ口で話せるのか。

どうする?

どうする?

などと時間にして僅か数秒の間に色々と思考を張り巡らせた後、コクンと頭を縦に振ることにした。


「…うん、わかった。ありがとう陵介。これからよろしく」

「あぁ、こちらこそよろしく」


「…で、早速質問なんだけど。なんで二年の陵介と一年の俺が同じ部屋?」

「あぁ、多分一年の部屋に空き部屋が無かったんじゃないか?進級の時に二年の部屋はぼちぼち空きが出るし。この部屋のヤツも辞めてったしな」

「へぇ、一年に空き部屋がないなんて。やっぱ人気あるんだこの学校」

「多分野の特別カリキュラム、部活動の充実さ、就職と進学のツテの豊富さ。他の高校に比べてブランド力もあるし。まぁこんな微妙な時期に滅多に転入出来ない所ではあるな。少なくとも俺の学年で転入生なんていたことないけど」

「あ…俺、自分で言うのもなんだけど頭良いし、運動神経も良い方だから。球技以外なら!」

「なら納得。ここは何か一つでも他校の生徒より優秀な生徒を集めてるからな」

「いやー、俺もここで勉強頑張ってどんどん才能を伸ばすぞ~」


あははは、と口元だけ笑顔を作り、動揺を誤魔化しながら内心は冷え冷えである。


(…自爆するとこだった)

 

それにしても、普段は激しく人見知りをする三月なのだが…。朝の出来事があったからなのかはたまた何か別の理由があるのか、自分でも不思議に思うほどに陵介とは割と自然に会話することが出来たのだった。
 

(何なんだろうな、陵介に対するこの謎の安心感)

それからは食堂で夕食をとったり、陵介に手伝ってもらいながら荷物の片づけをしたり、と、気がつけば夜も更けていて消灯時刻となる。

 

こうして、あっという間に笹本三月の記念すべき転校初日が幕を閉じることとなった。


(何だかゴタゴタした一日だったけど、ようやく七兄に会えた。蹴り飛ばしてやった。とりあえずの目的は達成したし、後はこのまま…平凡に学生生活送れれば俺としては問題無し。今更家に戻んのは御免だからな。明日から色々…俺も俺なりに頑張らねぇと)


二段ベッドの上の段から「おやすみ」と声を掛け、陵介もベッドに入ったことを確認してから部屋の明りを消す。

重いし視界は悪いし邪魔で仕方ない伊達眼鏡を外してから横になり、これからの自分の身の振り方について真剣に考えておこうと思っていた三月だったが、睡魔は彼に容赦なく襲い掛かり、すぐに規則正しい寝息が聞こえ始めたのだった。

 

 

六月八日、始まりの日 ~完~
 

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